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三上かーりん 物語   (筆責 服部忍海)

ドイツ・リートの音楽と詩の行間を探り、60歳を過ぎてから人文科学の博士号を取得。
在日33年の日本と生まれ育った国ドイツとの文化的『かけはし』になるのが夢。その歩みを
9つの物語にまとめました。                   (2001年 作成)

[1] ドイツから日本に来て33年、日本語で、歌曲の心を伝える
[2] 日独の文化の差を受け入れる
[3] 『水車小屋の娘』でした
[4] ミュンヘン国立音楽大学でピアノを学ぶ
[5] 結婚後、ロンドンで7年半を過ごす
[6] 3人の子どもを連れて、日本を体験
[7] 国際的な義母と昔風の母
[8] 60歳を過ぎて博士号取得
[9] 今はとても幸せ


3.『水車小屋の娘』でした


かーりんさんは、1934年、ドイツのラインプファルツ地方出身。生家は、ライン河の西、
フランスに近い森の中で、製粉会社を営んでいた。かーりんさんは、ドイツ・リートの名曲に
なぞらえて、自らを『水車小屋の娘』という。実家は広大な森の中の一軒家で、人里まで
4キロもあった。屋敷内には、森あり、牧場あり、工場あり、牛や馬や山羊などを飼っていた。
村の小学校まで、毎日1時間近く歩いて通ったが、当時その地方は、戦争でフランス領と
なったため、かーりんさんはフランス式の学校教育を受けることになる。

戦争中、実家では、ソ連の捕虜が働いていたが、その中にピアニストがいて、昼休みには
よくピアノを弾いていた。中流の家では、ピアノがあるのが当たり前で、家にはスタインウェイ
のグランドピアノがあった。
――「ドイツやフランスの兵隊さんも出入りしていたけど、国に関係なく、皆で音楽を楽しんで
いました。そういう自由な雰囲気が家にはあったのでしょうね。人が集まると、よく音楽を
します。私の兄弟5人も一応ピアノを弾く素養がありましたし、母はきれいなアルトで、よく
ドイツ・リートを歌っていました。」

特に音楽を意識していたわけではないというかーりんさんに、13歳の頃、転機が訪れた。
――「目の結核になって、1年近く学校を休んだんです。その時、ピアノに不思議な感触を
感じて・・・。それまでは、お稽古があってもいやがって、先生が来たら逃げちゃうとか、楽譜を
隠しちゃったりしてましたけど、その時から興味を持つようになりました。ちょっと離れた町に、
合唱を指導する素敵な女性の音楽家がいて、その先生が、退屈な音階の指使いの練習
よりも、和音の響きと旋律の流れの聴き方を教えて下さったのです。」