三上かーりん 物語   (筆責 服部忍海)

ドイツ・リートの音楽と詩の行間を探り、60歳を過ぎてから人文科学の博士号を取得。
在日33年の日本と生まれ育った国ドイツとの文化的『かけはし』になるのが夢。その歩みを
9つの物語にまとめました。                   (2001年 作成)

[1] ドイツから日本に来て33年、日本語で、歌曲の心を伝える
[2] 日独の文化の差を受け入れる
[3] 『水車小屋の娘』でした
[4] ミュンヘン国立音楽大学でピアノを学ぶ
[5] 結婚後、ロンドンで7年半を過ごす
[6] 3人の子どもを連れて、日本を体験
[7] 国際的な義母と昔風の母
[8] 60歳を過ぎて博士号取得
[9] 今はとても幸せ


1.ドイツから日本に来て33年、日本語で、歌曲の心を伝える


三上かーりんさんは、ドイツ・リート(歌曲)の解釈と演奏の指導を専門とし、伴奏もしている。
――「ドイツーリートには、小さいながら人間的・文学的に完結されたものが、かなりあります。
ドイツ人の私が、日本の俳句や和歌に興味を持ったとしても、よく分からない部分があるように
ドイツ・リートの詩にも、日本人には理解しにくい部分があると思います。」
そこで、その部分を解釈し説明して、歌の気持ちを汲み取ってもらうことを仕事にしている。

かーりんさんのご主人は、建築家の三上祐三氏。独特の『貝の形』をしたシドニー・オペラハウス
の設計にも加わった。最近の仕事には、東急文化村のオーチャードホールがある。従来の日本
の音楽専用ホールには無い新しい試みが成功し、聴衆, 演奏家, 施設運営者のそれぞれから
高い評価を得ている。クラシック音楽の分野で、夫はその音を最も効果的に伝えるための「器」
を作ることに情熱を傾け、妻は音の世界をいかに伝えるかの「手法」に心を砕く。いわば、音楽
のハードとソフトを分かち合う『おしどり夫婦』である。

かーりんさんが本格的に仕事を始めたのは50歳過ぎから。それまでは、5人の子宝を授かり
育児に専念していた。残念なことに、長女と長男を亡くしたが、次女のヨハナさん、三女・エリカ
さん、次男・ 陽三さんを立派に育て上げた。二人のお嬢さんは、それぞれ良い伴侶を得て、
ヨハナさんは夫妻で ウェブデザインの事務所を経営、エリカさん夫妻は建築家、陽三さんは
行政書士。嬉しいことに、ヨハナさん夫妻に一昨年“男の初孫”が誕生。かーりんさんは、
――「忙しい仕事の合間に会うのを、楽しみにしています」と語る。

2.日独の文化の差を受け入れる


ドイツ・リートの詩には、太陽・月・夜・山・川・海などがよく素材とされる。この自然描写は、
人の心の鏡として、さまざまな感情を反映しているという。
――「例えば、森や川に、<森林浴>のような母性的優しさを感じる人もいれば、<恐怖や
誘惑>を擬人化した『魔王』や『ローレライ』のような魔物を感じる人もいます。グリム童話に
現れる不思議な登場人物も、深層心理の解釈によると、自分の心の中に宿っている“元型”
が共鳴するものだそうです。私は、日本の『雪女』や『河童』などにも何か共通したものを
感じます。」

かーりんさんが日本に来て一番つらかったのは、言葉。
――「日本に行くと決まった時から、ロンドンで夜間の日本語学校に通いました。ひらがなや
カタカナは勉強したけど、漢字は読めなかった。日本に来てからは、子どもが小さくて、学校に
通えないから、個人的に先生に来てもらい、漢字をコツコツ覚えました。子どもが幼稚園で
プリントをもらって来ると、字引で全部調べたね。漢字は、字を見れば意味が分かるから、
勉強するほど面白くなります。お習字も素敵。リズムと流れが、音楽に通じるところがあり
ますね。」

日本の生活習慣で最初にとまどったのは、玄関で靴を脱いでスリッパを履くこと。
――「主人の実家に初めて行った時、トイレに入ると金色の字で書かれたスリッパがある。
とても気に入って、自分のと取り替えて履いて行ったら、皆に笑われた。『御手洗』って書いて
あったのね。子ども達の編み上げの靴を玄関で脱がせるのも、大変。帰りに履かせるのは、
もっと大変ね。お風呂も、初めは浴槽の中で身体を洗ってしまった。それで、家を建てる時に
洋式バスにしてもらったけど、今では日本風にしておけば良かったと思う。」

3.『水車小屋の娘』でした


かーりんさんは、1934年、ドイツのラインプファルツ地方出身。生家は、ライン河の西、
フランスに近い森の中で、製粉会社を営んでいた。かーりんさんは、ドイツ・リートの名曲に
なぞらえて、自らを『水車小屋の娘』という。実家は広大な森の中の一軒家で、人里まで
4キロもあった。屋敷内には、森あり、牧場あり、工場あり、牛や馬や山羊などを飼っていた。
村の小学校まで、毎日1時間近く歩いて通ったが、当時その地方は、戦争でフランス領と
なったため、かーりんさんはフランス式の学校教育を受けることになる。

戦争中、実家では、ソ連の捕虜が働いていたが、その中にピアニストがいて、昼休みには
よくピアノを弾いていた。中流の家では、ピアノがあるのが当たり前で、家にはスタインウェイ
のグランドピアノがあった。
――「ドイツやフランスの兵隊さんも出入りしていたけど、国に関係なく、皆で音楽を楽しんで
いました。そういう自由な雰囲気が家にはあったのでしょうね。人が集まると、よく音楽を
します。私の兄弟5人も一応ピアノを弾く素養がありましたし、母はきれいなアルトで、よく
ドイツ・リートを歌っていました。」

特に音楽を意識していたわけではないというかーりんさんに、13歳の頃、転機が訪れた。
――「目の結核になって、1年近く学校を休んだんです。その時、ピアノに不思議な感触を
感じて・・・。それまでは、お稽古があってもいやがって、先生が来たら逃げちゃうとか、楽譜を
隠しちゃったりしてましたけど、その時から興味を持つようになりました。ちょっと離れた町に、
合唱を指導する素敵な女性の音楽家がいて、その先生が、退屈な音階の指使いの練習
よりも、和音の響きと旋律の流れの聴き方を教えて下さったのです。」

4.ミュンヘン国立音楽大学でピアノを学ぶ


目が治ったかーりんさんは、大学の進路について、
――「音楽をやろうかなとは思ったけど、絵も好き文学も好きで、迷いました。父は、
音楽大学に行くなら『教育学』にしろと言いました。なぜなら、当時のドイツでは、
音楽大学の中では『教育学』が一番教育の幅が広く、弦楽器も指揮も作曲もさせた
からです。それで結局、ミュンヘン国立音楽大学の教育学科に進学し、文学と楽理を
始めたけど、半年通って、やはり実際に音楽をやりたくなりました。」
そこから新しい展開が始まった。

「当時、シュミット先生という有名な先生がいて、日本から留学していた井内澄子さんや
小林仁さんも師事していました。この先生の授業を受けたかったけど、教育学の学生は
絶対に取ってもらえない。それで、次の年にピアノ科に入り直しました。」
当時は、学費を出せば教育学科とピアノ科の2つに在籍できた。教育学科を4年で終え、
翌年、ピアノ科を卒業。日本の教育実習は2週間だが、ドイツでは仮の公務員として2年間
かかる。かーりんさんは、最初大学に入ってから8年かけて、国家教育公務員上級職の
資格を取った。

初めは下宿していたかーりんさんだが、ピアノの音がうるさいと、何度も追い出されてしまう。
そんな状況を見かねて、父が、ミュンヘンに小さな家を買ってくれた。そこで、同じように
下宿探しに悩む音大生何人かと一緒に住んだのだが、そこが、ご主人との出会いの場とも
なった。
――「主人のいとこで井内澄子というピアニストが、私の同級生で、一緒に住んでいました。
彼がヨーロッパに仕事で来た時、一日だけ彼女に会いに来たのです。その時、階段で
出会って、パッと目が合った瞬間、両方とも一目惚れ。小説みたい。」

5.結婚後、ロンドンで7年半を過ごす


出会った時は、すれ違っただけで、何も言葉を交わさなかったが、翌朝また祐三氏が訪ねて
来た。今度は、かーりんさんに会いに来たのだ。
――「それから彼と散歩していろいろ話して・・・。嬉しかったね。彼はドイツ語はできないけど
英語ができた。私はフランス語ができたけど英語は少ししか話せなかった。だから、細かい
コミュニケーションはできなかったけど、何とかなると思って・・・。」
翌1961年に結婚。やがて、ご主人の仕事でロンドンに。
  ――「ロンドンでは、二人とも外国人。国際結婚にはとても良い環境でした。」
二人の間に間もなく生まれて来た初めての子は、サリドマイド児だった。
――「サリドマイドなんて知らなかったから、大変なショックだった。みどりちゃんという女の子は、
生まれて99日間だけ生きた。それで、次の子を産むのが怖かった。お医者さんに励まされて、
次の子が無事に生まれた時、前は、子どもがいても音楽はぜひ続けたいと思っていたけど、
初めの子を亡くして、すごく母親としての責任を感じるようになっって・・・。これからは、一生懸命
子どものために尽くそうと考えるようになりました。」

ロンドンには7年半暮らしたが、1062年には、無事次女ヨハナさんが生まれ、かーりんさんは
育児に専念。
――「でも音楽にも近づきたかったので・・・。」
折角ロンドンにいるのだからと、王立音楽院の先生のレッスンを受けることになり、外部の学生
として、コンサート・デュプロマ(L . R . A . M)の資格も取得。
――「この時、私は長男が生まれる3ヶ月前で、お腹が大きかったから、先生方おまけしてくれた
かもしれませんね。大変お世話になりました。」

6.3人の子どもを連れて、日本を体験


王立音楽院の先生は立派な人で、
「実技はあとからでいいけど、まず音楽を大切に」という 考え方。
かーりんさんが30歳にもなって、子どももいるし、いつモノになるのかと不安を訴えても、
「待ちなさい。いつかあなたの時が来ます。」
そしてかーりんさんに、ママさんコーラスの伴奏の仕事などを紹介してくれた。それを機に、
かーりんさんは伴奏に興味を持つようになる。
――「ドイツの曲なら、言葉だけでなく、文学や時代背景、国のことなども教えなければ
なりません。今の私の仕事は、この頃から始まったと思います。」

三女のエリカさんが誕生して6ヶ月目、日本に移住することになった。「子どもには、日本で
教育を受けさせたい」という祐三氏の考えによる。ロンドンから、イタリア、オーストリア、
モスクワを回って3週間ほどの旅。小さい子を、一人はおぶい、二人の子の手を引いて
歩いた。
――「モスクワでは一番怖かったね。彼がデパートにお土産を買いに入ったまま
出て来ない。パスポートも財布も彼が持っている。赤ん坊を抱いたまま3時間も待って、
捨てられたのかと思った。」――実は、会計の 順番待ちで手間どったためだったのだが。

ロンドンで過ごした、最後のクリスマス(1976年)日本に着いたのは1968年4月。
かーりんさんの日本の第一印象は、梅雨。ベールをかぶったような梅雨を不思議なものに
感じたと言う。一家は目黒に落ち着いた。既に新学期は始まっていたが、ドイツ人の神父さん
のお陰で、カトリック系の幼稚園に入ることができた。
――「ヨハナは、言葉も何も分からない ところに急に放り込まれて、幼稚園のことは何も
話さなかったけど、3日目になって初めて、『みんな四角い箱からいろんな物を出して
食べてるよ。私だけが先生の箱からおいしい物を頂いているの』と言うのです。」

7.国際的な義母と昔風の母


早速、幼稚園に問い合わせたかーりんさんは、『お弁当』というものを知る。
――「月謝が高いから、昼食もその中に含まれていると思ったね。初めは分からないこと
ばかりだったけど、幼稚園の先生もお母さん達も、気持ちよく助けてくれた。今でも付き合い
の続いている人がいます。」
この事件で言葉の壁にぶつかったかーりんさんは、必死で日本語を勉強した。その点、義母
が津田塾出身、英語で会話ができたので助かったと言う。義母は津田塾創設者である
津田梅子さんの直弟子で、結婚も津田梅子さんの紹介による。

「主人の両親は、国際的でしたね。義父は大学教授として1920年に夫婦でロンドンや
アメリカに行っていますが、義母は主人の姉を妊娠したので、先に帰ったと聞いています。
義母は、私達がロンドンにいた時も、遊びに来てくれました。」
進歩的で理解あるお姑さんだったが、孫のお守りをするような人ではなかった。一方、
かーりんさんの母親は、『昔風の女性』。歌って、編み物をして、夢を子どもに託すような
生き方。
――「母は9年前に亡くなりましたが、それまで毎週手紙を書いて近況を知らせていました。」

かーりんさんは、お料理にも独特の才能を発揮している。食品会社主催の“しょう油を
使った料理コンテスト”でグランプリを獲得したことも・・・。
――「初めのうちは、私も子ども達も和食になじめなくて、『上等な材料の鍋料理』だと
言われても食べられなかった。」
作るのはドイツ料理がメインだが、和食に慣れるため、ドイツ料理のスープに味噌を入れたり、
逆に、豚汁にコンソメを入れたりした。ご主人も、新しい味に挑戦するのは面白い、と応援。
現在、嫁いだ娘達のために『母の味』のレシピをまとめている最中だ。

8.60歳を過ぎて博士号取得


40歳を過ぎてから末っ子の陽三君を出産し、育児に追われていたかーりんさんだが、
その間に、昭和音楽短大の学長でテノール歌手でもある奥田良三氏との出会いがあった。
初めはドイツ語の発音を直す目的だったが、歌うには、その歌詞の意味や文化的背景への
理解も必要。「かーりんさんの説明で曲に気持ちが入って歌えるようになった」と感謝された。
これを機に、かーりんさんは奥田氏の『美しき水車小屋の娘』の伴奏もすることになる。また、
奥田氏は「この解説は面白い、自分のコンサートで披露してほしい」と要望する。

こうして始まった『レクチャー・コンサート』は、ドイツ・リートに一層の魅力を与え、予備知識が
無い人にも楽しめるものになった。母国ドイツでも試みたが、人々の共感を呼んだ。これが
きっかけとなり、東京ドイツ文化センター , 国立音楽大学 , お茶の水女子大学 などで
講座を持つことになる。
――「ずっと子育てで、外に出られなかったけど、勉強は続けてたから、いろんなもの“貯金”
してたね。今度は人に分けてあげたい。曲の解釈は、同じ曲でも、時間がたつと、また違った
発見があって、とっても面白い。」

そんな頃、大学を卒業したばかりの長男・建三さんを事故で亡くす、という不幸に見舞われた。
――「息子を亡くしたことで、人生について目覚めたというか、これからの人生を充実させたいと
決意したのです。」
研究した成果を博士論文に仕上げようと、それまで教壇に立っていたお茶の水女子大で、
今度は博士課程の学生の席に座った。こうして1996年、62歳で人文科学の博士号を取得した。
長男を亡くして4年目。内容は、ドイツ・リートの言葉と音楽の時間の質を柱に、音楽的・文化的・
心理的背景を解明したものだ。

9.今はとても幸せ


かーりんさんは、自らの人生を25年区切りだったと語る。
――「初めの25年は勉強、次の25年は奥さんと子育てね。残りの25年を神様が与えて
下さったら、命のある限り仕事を続けたい。日本に来てから、ずっと家の中でしか仕事できなくて、
50歳を過ぎてからやっと外で仕事ができるようになった。テレビや新聞もなるべく見ないようにして、
家事は、お手伝いさんに助けてもらって、自分の仕事を充実させたい。」
今年の夏にもまた、国立音大の小川哲生氏とドイツでの『レクチャー・コンサート』を予定している。

かーりんさんの趣味は山歩き。音楽仲間の忘年会も山歩きが恒例だ。
――「歩いた後で、温泉に入るの最高ね。自然に触れるのは、心の安らぎにもなるし、音楽の
インスピレーションの充電にもなる。日本に慣れるの時間かかったけど、今では逆にドイツに行くと
浦島太郎みたい。ドイツには、ほとんど毎日電話していますけどね。」
日本が大好きと語るかーりんさんは、今、ドイツ・リートの手引書を執筆中。ドイツと日本の文化的
『かけはし』を夢見るかーりんさんの願いは着実に実を結んでいる。